原爆と中国新聞~自力印刷の再開~
1945年8月6日の原爆投下で、爆心地から東へ約900メートルの広島市上流川町(現・中区胡町)にあった中国新聞社の本社は全焼し、印刷機(輪転機)や活字、新聞用紙などを失いました。本社員の3分の1にあたる114人が犠牲になりました。「世界平和の確立」を社是に掲げ、核兵器廃絶と平和を訴え続けているのは、被爆地の新聞社としての責務だからです。
岸田貢宜さん撮影
行く手を猛火に阻まれながら、なんとか本社にたどり着いた社員たちは、焼けて真っ赤になった輪転機や、炎に包まれた新聞用紙の倉庫を前に、愕然として座り込んだといいます。
「戦争のさなか。一日も新聞を止めるわけにはいかない」との思いで、夕方には、他の新聞社の力を借りて代行印刷することを決定。電話も電信も不通になっていたため、宇品にある陸軍船舶司令部まで「棒のような足を引きずって」歩き、通信網を使わせてもらい、依頼。発行を再開できたのは、わずか3日後の9日でした。
岸田貢宜さん撮影
戦前最後の輪転機据え付けを報じた中国新聞(昭和11年)
自力印刷の再開を可能にしたのは、郊外の温品村(現・東区)に疎開させていた1台の輪転機でした。家族を失い、自らも傷ついた体で駆け付けた社員たちが寝る間も惜しんで試行錯誤で自力印刷の準備を進め、9月3日付から発行を再開しました。
しかし、わずか2週間後に広島県を襲った枕崎台風による浸水で、また発行不能に。自力印刷が再開したのは、11月5日付からです。輪転機を解体して馬車に積み、上流川町の本社まで何度も往復して運んで組み立てました。5日付2面トップの記事は、「郷土復興いつの日」の見出しで、「市民が希求して止まないのは巧緻精妙、雄大深淵なる復興の構想ではなくて寒さに対する家であり、衣であり、飢えに対する食物の補給にほかならない」と訴えています。
自力印刷の歩み
1945年8月9日 | 朝日・毎日新聞などに代行印刷を要請し、発行を再開 動画「1945原爆と中国新聞―代行印刷」はこちら |
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9月3日 | 温品村に疎開させてあった輪転機を使い、自力印刷で発行 動画「1945原爆と中国新聞―自力印刷」はこちら |
9月17日 | 枕崎台風(広島県の死者2012人)で浸水し、再び発行停止に |
11月5日 | 上流川町の本社に輪転機を運び、発行を再開 |
※動画は2012年に制作しました